現在の世界をひと言で表現するならばこのようになります。
1776年のアダム・スミスの国富論で市場経済という「見えざる手」という概念が登場して250年が立とうとしています。1776年といえば八代将軍徳川吉宗が引退し、田沼意次が老中になった頃です。今では資本主義は常識ですが、これが未来もずっと続くとは限りません。
その前の250年間は絶対王政を支えた重商主義でした。そしてさらにその前の250年間は十字軍ルートや北方ルートの交易の拠点で商業都市が栄え、荘園を持っていた騎士などの封建領主が貨幣経済で次第に没落し、大航海時代での新大陸からの銀の流入による銀貨幣の急落がインフレを引き起こし、農民からの地代収入に依存する領主の没落をさらに加速させました。
資本主義は「能力が同じならば資本を集めた者が勝者となって、手付かずの市場を独占する、または敗者から搾取する。そして蓄積された利潤による財産は私有する。」ということになります。産業革命以降は資本主義が加速し、生産力の高い機械を稼働するために大量のエネルギーが必要となり、エネルギーや資源を求めて各国は戦争を繰り返すようになりました。第二次大戦後は西側諸国と社会主義や共産主義を掲げる東側諸国とが東西冷戦で対立、1990年代にソ連崩壊などで西側諸国が勝利すると、欧州はユーロに通貨統合し、通貨ブロックの経済圏を広げていき、米国もまた米ドルを世界最大の流通通貨とし米国企業への投資を加速させました。2000年代以降はBRICsと総称して人口が多くかつ比較的に低所得の国を世界経済圏の中に組み込みました。これによって安い賃金の労働力確保とその後は時間経過に従って所得水準の向上によって、消費市場を手中にしようとしました。このようなことを繰り返していくと、ラストリゾートはアフリカ大陸しか残っていないとも言われています。
資本主義での勝者と敗者は経済格差を生みます。しかし、究極的には敗者側が一定の所得や富を持っていないと搾取する対象物が無くなってしまい勝者は利益を得ることができなくなります。つまり、徐々に均衡化していき究極的には格差は無くなります。世界中どこを見渡してもエサがない状態になるのです。この段階で資本主義は機能しなくなります。
幕末時代にあたる1867年にカール・マルクスは資本論を出版しました。その中で、「資本家による労働者からの搾取、そして格差の拡大を経て社会主義に移行する」、と書いています。まさに前述のような理屈になるわけです。その社会主義の段階に近づいていると言えます。2020年の世界経済フォーラム(WEF)ではグレート・リセットがテーマで、「ステークホルダー資本主義」が提唱されました。「企業の従業員や取引先、消費者や地域社会等のステークホルダーの利益にも配慮した社会と共存した済活動を行うべき」という意味です。これは資本主義的要素を残した社会主義とも言えますし、社会主義的要素を取り入れた資本主義とも言えます。
社会主義が本来の意味とかけ離れてマイナス・イメージとなったのは、やはり中国とロシア(ソ連)に起因するものだと言えます。これらの国々は本来の社会主義ではなく、重商主義国家といえます。重商主義は国家の輸出を最大化し、輸入を最小化するように設計された経済政策で、16世紀から18世紀の原始工業化時代の欧州での考え方でした。絶対君主制を支える常備軍や官僚制度などの維持するためには国富の増大が必要で経済へは貿易収支を通じた外貨準備の蓄積や関税障壁などの介入政策をとりました。そして植民地の拡大、植民地からの搾取、他国との植民地争いなどを引き起こしました。絶対君主制という表現を中国共産党やプーチン大統領という言葉に置き換えるだけで、現在の両国の姿とピタリと符合するのです。つまり、この両国は重商主義であって、マルクスが唱えた社会主義とはかけ離れているのです。しかし、社会主義という言葉自体が悪い印象に染められてしまったために、ステークホルダー資本主義という新語を使ったというのが裏事情ではないかと思えます。
グレートリセットのステークホルダー資本主義では、GDP成長率ゼロが目指す究極の理想の社会とも言えます。全人類が十分に生活できるだけの所得と消費生活ができるならば、それに対応する利潤だけで良く、人口が変動しない限りは利潤の成長は不要ということになります。そもそも、社会主義ならば国家も不要なのではないかという考え方もあります。国家は何かということを考えてみる必要があります。
「国家がパワーを持つ」とか「覇権国家」という概念が生まれたのは英国の哲学者トマス・ホッブズが1651年に著した「リヴァイアサン」からです。ホッブズは「人々が望んでいる対象物が複数に分割できないことで、この複数者の意思が達成できないならば彼らは敵対関係となる。したがって人間はこの複数者に対して先制攻撃を加えて殺害するか服従させることを選択する。」という前提に立って理論を展開しています。そのため人々は国家というコミュニティに属する社会契約を行い、この契約の同一性による国家(コモンウェルス)がパワーを求めるのが自然の摂理であると説いています。
トマス・ホッブズの時代は日本では江戸時代の初期。すでに戦国時代を終えて、徳川幕府の安定した世が定着し町民文化も花開き始めた頃でした。しかし、欧州ではポルトガルやスペインの王政時代から、英国の国家概念と重商主義が結びつき、植民地化と侵略戦争の時代へと移っていくのです。ちなみに、国家だけではなくキリスト教という宗教にも言えます。世界の宗教のほとんどは民族や地域で安定し他民族への布教という拡大や強制を行いませんが、キリスト教は教会というシステムを通じて布教し、時に戦争を引き起こしてきました。
すべての前提を侵害や略奪に置いているということだけでも、日本人が縄文時代から継承してきた共有や共助の精神とは相当かけ離れています。例えば、東日本大震災での被災者たちが配給の食料をきれいに列をつくり、お互いを尊重して順番を待っている姿に、各国メディアが驚きとともに報じていました。しかし、私たち日本人は自然とそういう行動ができ、特別とも思わずむしろ常識と考えます。しかし、侵害や略奪が前提とするホッブズのような海外の人々から見ると、日本人が世界から見て得意な民族だと驚く理由がここにも現れています。
仮に、資本主義が寿命を迎え、本来の社会主義的な時代に移行していくならば、国や国家権益、格差解消どころか財産の私有さえも無意味になるかもしれません。想像がつかない世界かもしれませんが、日本人は1万6千年以上前の縄文時代にすでに経験し、1万年も持続させました。日本人のこの経験が鍵となるかもしれませんね。