日本の文化を象徴する寺院は鎌倉時代や室町時代など武士の時代に建立されたものが多いのにくらべて、神社ははるか昔から多く存在しており、中には縄文時代が起源とされる神社まであります。日本人独自の風習や行動様式、そして自然界の万物を尊ぶ精神は、縄文時代から形成されているといっても過言ではありません。縄文時代は紀元前14,000年頃から紀元前400年くらいまで1万年以上も続いた時代です。
驚いたことに、全国各地で数多く発見され発掘調査が行われている縄文時代の遺構ですが、人間を殺傷する武器が一切見つかっていません。そのため、1万年も平和な時代が続いた世界史上とても珍しい文明であったと言われています。伝統工芸品のお話でも述べたように、1万2600年前の漆の木片や9000年前の漆器が発見されているように、非常に高い技術をもっていました。世界最古の文明がメソポタミア文明初期のシュメール文明で紀元前5500年頃から紀元前2000年頃とされているので、縄文時代は実に8,500年も古く、世界中の考古学者のホットな話題になっています。
考古学上は日本列島に人類が渡ってきたのは3万年前の旧石器時代とされています。石器で巨木を切り倒し、丸木舟で琉球ルートの海を渡り3万年前の航海を再現するというプロジェクトが国立科学技術博物館の企画で行われました。草束船や竹筏船は失敗、丸木船だけが成功しましたが乗員はわずかに5回。そもそも、金属製のノコギリがない時代に石斧で巨木を伐採するだけでも3万6千回も斧を振るわないとなりません。このプロジェクトは6年の歳月を費やしました。
旧約聖書のノアの箱舟だけではなく、世界のあちこちに大洪水と船で人類が生き延びたという伝説があります。世界で最も大きな木造帆船は明治時代にドイツが建造し夏目漱石が英国留学の際に乗船したプロイセン号が長さ133m、現存する最大帆船ロイヤルクリッパー号で134mで乗客とと乗員合わせて333名です。人々が脱出し、食糧も貯蔵する巨大な船をどれだけの労力と技術とで建造するのか?と考えると途方もないことになります。古代のミステリーは私たちの心をワクワクさせますね。
———–
私はもともと歴史好きでしたが、縄文時代から日本の初期の年代までに関心を抱くようになったのは2000年代でした。当時私は資産運用業界に籍を置き、国内外の機関投資家を顧客として資金を運用していました。その関係から金融の世界で存在力を示すユダヤ資本やヘッジファンド等を運用するユダヤ人などとも交流をしていました。世界に散り迫害されたユダヤ人は中世ヨーロッパの商人組合のギルドにも加盟できないため、百貨店を発明したり、金貸しの仕事から紙幣を発明したりと特異な存在でした。その後、ロスチャイルドなどの金融財閥となり、例えば米国の百貨店業界や映画のハリウッド、証券や銀行などの金融業界で大成功します。
そんな中で、2000年代初めくらいから、古代の歴史に興味をもつ大きな出来事がありました。英国BBCが2001年に放送した科学ドキュメンタリー「神の子」で復元したイエス・キリストは、黒髪・黒目・黒髭で浅黒く眉の濃い丸顔の中東男性で、その意外性に多くの反響がありました。加えて、遺伝子解析による生命科学分野の急速な進展です。2003年に人類はヒトゲノム解読を完成したのです。これにより、IPS細胞や製薬の分野で大きな進歩を遂げて、昨今のコロナ禍でもRNAワクチンが普及したのは記憶に新しいことです。このヒトゲノム解読は考古人類学の分野では「人類のルーツ」を解明する研究を発展させました。
母系遺伝を解明できるミトコンドリアDNA分析では、日本人は2系統に分けることができるが、そのうちひとつはアジア系ではなく、むしろアフリカ系に近いというもの。また、父系遺伝を解明できるY染色体DNAではD系統とO系統でほとんどを占め、D2系統ではほぼ半分を占めるという結果が明らかとなりました。D2は日本列島にまんべんなく分布していますが、アイヌ人は9割がD2です。大陸からの渡来人が多い九州では少なく、沖縄では北海道アイヌと同様に多いのです。イスラエルには紀元前721年のアッシリア捕囚以降に「失われた10部族」のその後の行方を追跡調査するアミシャブAmishavという特務機関が1975年に設立され、世界各地に散った古代イスラエルの末裔たちを調査しています。
旧約聖書でのアブラハムの孫で神と契約しイスラエルの祖となったヤコブには12人の息子がいて十二支族を形成しました。そのうち、11番目の息子のヨゼフだけがエジプトに行き、宰相にまで出世します。ヨゼフの子のエフライムとマナセがエジプト人を混血した2支族を形成します。その後、エジプトのユダヤ人はモーセに導かれてエジプトを脱出し、シナイ半島に渡りカナンの地を目指してイスラエルを建国します。古代イスラエルはダビデ王やソロモン王の栄華のあとに、紀元前733年にアッシリアに滅ぼされて各支族は世界に散ります。このうち、エフライム族とマナセ族は東に向かったとされているのです。
日本人の遺伝子解析によるグループ分けでアフリカ系の分類が近いという結果は、ヨゼフの2支族でエジプトの血が混ざったエフライムとマナセが渡来したと考えるとすんなりと説明がつくわけです。
もともと、日本語と古代ユダヤのヘブライ語とは多くの共通点があるとか、日本の民謡などにもヘブライ語で意味があるとか、日本の神道の儀式や祭りがユダヤの風俗と似ているなどの状況証拠は多く存在していました。日本とユダヤが同一の祖先だとする日ユ同祖論は1878年(明治11年)に英国人が初めて出版しています。1904年(明治37年)の日露戦争の戦費を調達するために発行した英ポンド建日本国債が苦戦する中で、引き受け資金提供した米ユダヤ人銀行家のジェイコブ・シフの逸話や第二次世界大戦の1940年に、ナチスドイツに迫害されたユダヤ難民6,000人のビザを発行し、国外退避に協力し救った外交官杉原千畝の逸話は、その根底に日ユ同祖論の影響があったのかもしれません。いずれにしても、それまで半信半疑であった日ユ同祖論ですが、この遺伝子解析は私にとって納得のいくものでした。
私は2006年当時、イスラエル支族のうちエジプトに渡ったヨゼフの支族のうちエフライム族がアッシリア捕囚後に最初に日本に来たと考えていました。その後に、兄弟であるマナセ族が中央アジアの月氏国を建国しつつ東に移動し、紀元前247年に中国の秦を建国、その後に朝鮮半島経由で秦氏として日本に入ったとも考えていました。京都の太秦や八坂神社などは秦氏としてのマナセ族であると考えていた訳です。
2010年代頃になると、日ユ同祖論から日本シュメール同祖論が展開されるようになりました。シュメール文明とは世界最古のメソポタミア文明の初期文明なので、世界最古で始まりは紀元前5500年頃と言われています。東方から来た人々が突如始めた文明で、楔形文字を使い、高度な建造物を構築し、またギルガメッシュ叙事詩でも有名です。ユダヤとの前後関係ですが、ユダヤ人の祖であるアブラハムはメソポタミアの都市を出立して旅に出て、その孫のヤコブが神と契約して、ヤコブの子たちの支族がイスラエルを建国するので、広く捉えるとシュメールというメソポタミア圏に影響を受けており、ユダヤよりもはるか昔の同地域ということになります。
日本シュメール同祖論が主張する根拠はシュメールで使われた古代へブライ語と地名や神や王の名前が、日本神話と極めて類似しているという点です。天皇はスメラミコトと敬称され統治する尊い方という意味と言われていますが、「スメル(シュメール)の王」というヘブライ語の意味になるそうです。
日本の正当な歴史書とされる古事記は西暦712年に、日本書紀は西暦720年に成立しています。著者とは別にそれらの編纂を統括したのが中臣鎌足の次男で平安朝で貴族の頂点となる藤原氏の祖となる藤原不比等でした。中臣鎌足は飛鳥時代の朝廷の重臣である蘇我氏を滅ぼして朝廷内の体制を固めました。そのため、古事記や日本書紀(『記紀』)は古来の言い伝えや歴史を藤原氏の都合の良いように書き換えて編集されたものであるというのが有力な見方ですが、一応公式には日本の正当な歴史は記紀によるものであるとされています。歴史を時の権力者に都合の良いように書き換えるという行為は中国や韓国またはその他の国でも行われた行為です。
記紀の他に、偽書として烙印を押された文書は少なからずあります。竹内文書や宮下文書が有名です。もともとこれらは口伝であったりしています。口伝であることをもって偽物であるという断定はできません。例えば、正統竹内文書の口伝は武内宿禰の系統の口伝と言われています。武内宿禰はヤマトタケルの父の景行天皇に支えた日本で最初の大臣職であったとして、明治22年発行の一円札をはじめとして1945年発行の200円札まで5種類の日本の紙幣のデザインされました。武内宿禰はもともと物部氏系で、飛鳥時代の朝廷を支えた蘇我氏の先祖でもあります。中臣鎌足(藤原氏)が蘇我氏を滅ぼし記紀を正統として、ライバルだった武内宿禰以来の口伝の竹内文書を偽書とするのは政治的な意図を感じざるをえません。
いずれにしても古代の研究は、明治時代に英国人が気づき発表した日ユ同祖論が、平成になってヒトゲノム解析により遺伝子分類上の傍証が加わり、日本古史や天皇の系譜を研究してきた研究者たちの知見を加えた日本シュメール同祖論と発展してきました。それに加えて、1986年に発見された与那国島海底遺跡や2000年に函館の遺跡で見つかった9000年前の漆器、2011年に発表された福井県鳥浜貝塚の世界最古1万2600年前のウルシ木片など、世界最古の縄文時代の年代に驚きの発見が相次ぎました。
シュメールの流れを汲むユダヤ人が日本に渡来したのは紀元前数百年前。紀元前5500年頃に東方から現れたシュメール人も忽然と姿を消しているので、そのシュメール人が東方の日本を来訪したとしても初期ウバイド朝が終わる紀元前3500年頃。しかし、縄文人ははるか以前から日本で豊かな暮らしをしていたので、その中東からの渡来人が西から東へと一方通行の交わりだけだったのか、と私はかねてから疑問に思っていました。「紀元前5500年前後に当時最先端だった縄文人が西に行ってシュメール文明を興し、その後、紀元前3500年頃に再び日本に戻り、さらに紀元前数百年頃に末裔のユダヤ人系支族も日本に来るという何往復かの交流があったのではないか」と考える方が自然のように思えるのです。青森県の三内丸山遺跡は紀元前2900年〜紀元前2200年頃で、諏訪や神津島の黒曜石を海外と交易していたそうです。その交易の相手はシュメール人が東の日本にもどる帰路で作った大陸のネットワークなのかもしれません。
仮に、縄文人が西に向かいシュメール文明を興したとするならば、「なぜ日本を出たのか?」ということになります。そこに結びつく発見が 2016年に始まった鬼界カルデラの調査でした。薩摩半島の南方約50kmの海底火山の鬼界カルデラが過去1万年の内で最大規模の大爆発を起こしたのが7300年前で紀元前5300年頃。その火山灰は東北にまで到達し、特に20cm以上積もった地域は大阪や京都、伊勢のギリギリ手前まで及びました。推定年代が200年ほど前後しますが、鬼界カルデラ大噴火の後かまたは予兆かを察知して九州系縄文人が西に向かってシュメール文明を興したと仮定するならば、時系列的には繋がります。
縄文人はどこから来たのか?
2020年にオアスペという書籍の訳本が出版されて話題になっています。19世紀の歯科医でフリーメーソンのメンバーだったジョン・ニュブローが神の言うままに自動書記をしたとされる本で、当時のFRBが出版禁止にして封印していたとされています。それが近年有料公開になったらしいのです。内容は宇宙創生から、人類誕生、そして紀元前3950年までの歴史を詳しく書いているとのこと。それによれば、何種類かの人類の淘汰のあとに、高度な文明で繁栄した太平洋のパン大陸が海に沈み大洪水が起きた際に、12,420人の生存人類が34隻の4船団で東西南北に脱出し、それとは別に2隻がパン大陸の北西部の沈まずに済んだ切れ端にたどり着いた。それがザ・パンと呼ばれジャパンになったというのです。オアスペには、それ以外にも最終的に人類を救済するのは日本人だと言及しているようです。私たち日本人からすればとても光栄なことですが、それよりも日本人として日々精進していくことの方が大事なのだと思います。
非常に面白い話ではありますが、現時点で科学的かつ客観的なエビデンスには乏しいのが残念です。例えば、この138隻を単純計算すると一隻当たり90人と備蓄食料が搭載されることになります。金属のない時代に、石斧で世界最大級の帆船のプロイセン号並みの船を作れるとは思えません。しかし、時間の経過とともに、新たな発見が追加されるのが歴史の分野です。今後も、ときどきこのテーマを覗いてみようと思います。