二代目黒田九兵衛直次の時に加藤嘉明に仕えて以来、代々の黒田九兵衛は徳川時代になってからも加藤家に仕えてきました。唯一の例外は、1639年の会津騒動の責任をとって会津藩42万石から石見吉永藩1万石に減封されて大リストラを余儀なくされた時代だけです。この時の4代目黒田九兵衛直良は久松松平家桑名藩に引き取られ御物頭(警護番方の責任者)を務めました。加藤嘉明の出自は三河出身であるとは言え、父の加藤教明は三河一向一揆で徳川家康の元を去り、嘉明は最初から豊臣秀吉に仕官して賤ヶ岳七本槍の最年少となります。
加藤家はその後許され、小藩ですが近江水口藩を2万石で立藩し、江戸城では帝鑑の間詰めで譜代大名と同じ待遇の譜代格を与えられます。5代目黒田九兵衛直政は水口藩加藤家に戻り、8代将軍吉宗の時代に将軍の軍旗や馬標を管掌する御旗奉行に任ぜられます。
2代目黒田九兵衛直次が関ヶ原の戦いと同時に起きた愛媛松山への毛利軍の急襲で留守役として迎え撃ち、戦死をしましたが撃退したことは徳川一門にとっても重要な意味がありました。仮に松山を獲られた場合には関ヶ原で勝っても中国攻め・四国攻め・九州攻めを再び繰り返さざるを得なくなるからです。加藤嘉明と黒田家が松山20万石から会津藩に移封になった後に入部した久松松平家は戦いの後に建てられた黒田霊社を毎年祈願してくれたそうです。会津転封もまた上杉と伊達対策の要の地で東北の最重要拠点だったので加藤家が入り、そののちに徳川の親戚筋が治めます。
それでも、加藤家に対する久松松平家と徳川幕府の厚遇は疑問でした。
そんな折に、川崎商工会議所主催で、徳川家康の生誕地であり本拠地であった岡崎を訪ねる視察ツアーがあったので参加してきました。岡崎商工会議所様や観光協会様、丸石醸造様、八丁味噌カクキュー様、そして川崎商工会議所様には大変お世話になりました。厚く御礼申し上げます。
いろいろな情報をいただき、以下のように整理してみました。
加藤嘉明の家は元々は甲斐武田氏の家臣でした。推測ですが、武田信玄の父の武田信虎が1519年に甲斐を統一し甲府の躑躅ヶ崎館を建てた頃だと思います。その頃、甲斐武田氏は上杉と同盟したり敵対したり、駿府の今川氏と同盟したり敵対したりを繰り返していました。その度に家臣が対立し離反することもあったようです。加藤家一門のひとつの加藤朝明(嘉明の祖父)も離反した一人で、敵対する今川氏の領地を避けて三河の地に辿り着き、家康の祖父の松平清康に仕官します。ちょうどその頃に松平清康は拠点の安城市から東に岡崎を攻めたり、西尾市の尾島城を攻めて東三河に進出するなど三河統一の動きをしていました。勇武に優れる武田家家臣の加藤朝明を家臣に加えて、西尾市の上永良城を与えます。
しかし、松平清康は1535年に家臣の阿部正豊に暗殺されてしまいます(森山崩れ)。この阿部正豊の背後では今川氏親が操っていたようです(ひとつの説です)。
その後、安城松平家では子の松平広忠(家康の父)が後を継ぎます。加藤家では加藤朝明は松平清康と広忠の二代に仕えますが、子の加藤教明も松平広忠と家康の二代に仕えることになります。
徳川家康が岡崎城で刈谷市水野家の於大の方を生母として1543年に生まれた時には加藤教明が仕えていました。その後、1547年に家康(竹千代)が駿府に人質となり、於大の方が阿久比町の久松家に再婚して嫁いだ後も、加藤教明はかねてからの敵方である今川家の様子を探り、於大の方に安否を報告していたのかもしれません。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が敗れ、家康が岡崎城に復帰したわずか4年後に三河一向一揆が起きます。安城市南東の西尾市に近い本證寺が一揆の中心地となり、そこから近い南三河地方の大草松平家、櫻井松平家、吉良氏などが一揆側につき、家康勢と対立します。古くからの土着ではなく、新参者の加藤教明の上永良城はぐるりとこれらの一揆勢力囲まれた立地でした。そのため、加藤教明も一揆側につかざるを得なくなったように思います。
一揆に加担した、渡辺守綱・本多正信・夏目吉信・桜井松平一族などは赦されたり、復帰しましたが、加藤教明は三河を去り、織田信長・足利義昭・豊臣秀吉と仕官先を変えます。そして、その子の加藤嘉明が豊臣秀吉の家臣となります。
この加藤家の徳川との縁は祖父の代から家臣であったこと、今川を警戒するにはもってこいの甲斐武田氏の家臣だったこと、そして人質時代の家康の情報を久松家の於大の方に届けていたこと。この3つなのではないかと思う次第です。
岡崎松平家の激動の30年間に誠実に尽くしたからこそ、厚遇を得たのだと思います。