会津騒動に想う
1627年 伊予松山藩加藤家は会津に移封となります。その前に松坂藩から会津藩に移った蒲生氏郷は1556年生まれなので藤堂高虎や七本槍の片桐且元と同い歳で加藤嘉明の7歳年上で、数々の武功を挙げた部将でしたが病死し、二人の男子も早死にしてしまいました。
隣国の仙台藩の伊達政宗はかねてから会津を欲しがり蒲生氏郷の暗殺計画も発覚した程でした。また峠を越えたすぐ北の米沢は上杉領です。直江兼続はすでに病死し、上杉景勝も没し2代目米沢藩主は上杉定勝の時代でした。一応、東北の外様大名の反乱を防ぐ軍事要諦の会津の地の周辺は収まってはいましたが、二代将軍秀忠と三代将軍家光の時代はまだまだ情勢は不安定でした。この時期に外様82家、譜代49家が改易や減封処分となり市中には浪人が溢れ、1651には由井正雪の乱も起きています。
そんな時代に、松山藩加藤家に蒲生家の後任として会津移封の話が入ります。藤堂高虎にも話がありましたが高齢を理由に断ったようです。高虎はすでに71歳なので当然でしょう、加藤嘉明も64歳でした。会津に移った3年後には嘉明も他界し、嫡男の明成の時代となりました。移封に際しては、松山藩時代の家老の佃十成も同様に高齢なので松山に残りました。その代わりに若い世代の堀主水が家老となります。堀主水は戦国期の戦経験は少なく、あらかた勝敗が見えている大阪の陣がほぼ初陣だったので、武功を上げたと言っても、その前の世代からみれば見劣りするものでした。また、家老職は軍事よりも内政が担当なので武功を求められるわけではありません。
会津移封の7年後の1634年に、三代将軍家光が京に上洛するという一大イベントが執り行われます。多くの大名を改易処分し、武家諸法度を改訂し、参勤交代制を導入し、徳川幕府の体制が確立した時期です。朝廷に幕府の威厳を示すとともに、朝廷との険悪だった関係を修復するのも目的でした。上洛の行軍には30万人の武士が動員されました。会津加藤藩も動員され、三代目黒田九兵衛忠直は鉄砲部隊の第一人者として先発隊の先手組と大筒組の両組を指揮する栄誉を受けました。上洛には東海道50次目の宿場である水口に二条城の築城を指揮した小堀遠州が作事奉行として造営した水口城があり、上洛前の宿所となりました。不思議な縁で、後世に水口城の防衛責任者である足軽大将として代々の九兵衛が水口で過ごすとは当時は思いもよらなかったはずです。
加藤家の運命を揺るがした会津騒動は上洛の5年後の1639年に起こりました。家老職の堀主水の言い分は、「主君明成が家老の諫言を聞かずに、物品に濫費し会津若松城の改修という膨大な支出をしている。その結果、民が苦しんでいる。」というもので、主君と家老の対立は激化していき、堀主水は出奔し、その際に、城に向かって鉄砲を撃つという暴挙までしています。これに激怒した明成は諸所に逃げ込んだ堀主水を追い、捉えます。結局は幕府の裁定で「堀主水の言い分にも理がないわけではないが、出奔し、さらに主君に向かって銃撃を加えるなどあってはならない」として堀主水を処分します。この事件で、加藤明成は責任を取って会津藩返上の改易を自ら願い出ます。本来ならば、改易・減封処分となった131家の大名に付け加えられて、お取り潰しになってもおかしくはありません。結果として幕府は天領だった地を与えて中国の石見吉永藩1万石として存続させました。1万石以上が大名なので最下位ランクです。会津藩40万石から石見吉永藩1万石に減封されると、ほとんどの家臣を抱えることはできません。黒田九兵衛の場合は、四代目黒田九兵衛直良の時代となっていましたが、久松松平家桑名藩が助け舟を出し、松平定綱に鉄砲大将として仕えることとなりました。松平定綱は、加藤家が会津藩に移封となった際に、代わりに松山藩主となった松平定行の弟です。整理すると、家康の生母於大の方の子(異母弟)が初代桑名藩主松平定勝で、その次男が松山の定行、三男が桑名の定綱です。
加藤明成と堀主水の騒動の歴史上の真相は分かりません。しかし、私なりの意見を以下に記します。
まず、東北の守りの要諦は米沢の上杉と仙台の伊達への対抗ということで会津であったことは間違いありません。江戸幕府の体制が固まったとはいえ、不穏な状況は残っていました。そもそも蒲生家に変わって、松山から移封されたこと自体がその重要性を物語っています。松山は、毛利氏と薩摩の島津氏の反乱を食い止める最重要拠点でした。そこに歴戦の強者である加藤嘉明の家が配備されるのは合理的な決定でした。例えば、白鷺城の別名をもつ美しい姫路城も同時代に徳川四天王の本田忠勝の子である本多忠政が初代姫路藩主となって西国の守りを固めています。姫路城は優美な姿とは裏腹に鉄砲や矢の狭間が3000箇所以上もある軍事要塞でした。この傾向は加藤嘉明が築城した松山城や、徳川四天王の井伊直政の子の井伊直継が築城した近江の彦根城も同様です。
加藤明成は会津若松城を改修しました。伊達政宗が秀吉に臣従し会津城を召し上げらるまで支配していました。そのため、大手門は東向きであり、北側の上杉勢への備えも為されていませんでした。明成は、これを大手門を北向きとして、さらに北出丸虎口を配して、敵が侵入した場合は、その広場で相手を制圧できるようにしました。別名で鏖丸(みなごろしまる)と呼ばれています。その後の平和な江戸期ではあまり役にたたなかったかもしれませんが、幕末に官軍と戦った籠城戦の会津戦争で8倍もの数の圧倒的な官軍に対して会津が5ヶ月間も持ち堪えた要因のひとつとなっています。加藤家が減封となったあとの会津には家康の孫で、将軍家光の異母弟である保科正之が会津松平家初代として入りました。会津は軍事上の重要拠点であるため武芸の振興にも力を入れました。白虎隊も有名ですが、旧武田家臣も多く移り住み、武田流武術も伝承されています。甲斐武田氏の祖となる新羅三郎(甲斐源氏初代)は源氏の武術や修験者の武術を独自に磨き継承しました。現在の合気道の源流である大東流合気柔術が会津源流なのは、このような事情があります。
もうひとつの問題の加藤明成の濫費についてです。就任時は若手だった家老の堀主水は松山と会津の特性の違いを理解していなかったと私には思えます。松山は秀吉の海賊禁止令を達成するために瀬戸内海の海賊たちを陸にあげて雇用するしかありませんでした。もともと瀬戸内海の島々は急峻な地形が多く稲作できる土地はほんわずかでした。加藤嘉明は松山城を築城すると同時に一帯を開発し城下町とすることで田畑や働き口を創出したわけです。黒田九兵衛の松前(まさき)の領地も、近江長浜の黒田村と極めて似ていますが、美田の領地であり栄養分が豊富な黒田の名前通りという印象があります。しかし、会津は上杉氏や伊達氏の支配で田畑はすでにあり、商工業者も領主の豪華な暮らしぶりを前提に成り立っていました。それを手懐けるためには豪勢な支出は必要だったのではないでしょうか?秀吉が長浜城築城時には、相当な支出を行い子供歌舞伎や曳山祭りを行って近江の領民の心を掴みましたが、加藤嘉明は秀吉の小姓衆の時代からその経営ぶりを見てきたわけです。それを考えると、加藤明成に言われている濫費という認識は本当なのかと疑問に思います。明成の代では古くからの家臣の堀主水も、加藤嘉明や黒田九兵衛直次からみれば20歳も年下であり、堀主水が秀吉流の領国経営を知らないのは当然だからです。
結果として、加藤嘉明の加藤家と黒田九兵衛の黒田家は、後年の水口藩立藩まではなればなれとなります。