文化・歴史

450周年記念:黒田九兵衛と加藤家の歴史(2)秀吉と近江勢

近江勢の活躍

初代の黒田九兵衛忠次は1573年からの天正年間の間、ずっと秀吉の弟の羽柴秀長に仕えました。のちの大和大納言豊臣秀長です。秀長は文武両道のバランス型武将であったようで、長浜城の内政・戦の武器や輸送などの兵站補給・戦の総大将までこなし、秀吉の天下取りを支えた一番の功労者でした。

彼に仕えた初代黒田九兵衛忠次は、3年後の播磨攻めで加わった3-4歳ほど年下の黒田官兵衛(小寺官兵衛)やのちに登場する藤堂高虎のように自我を主張するタイプではなかったはずです。黒田忠次は秀長のもとで自分の強みである近江長浜の資源を最大限に活かす貢献をしたようです。それは鉄砲と湖上輸送です。

鉄砲は最初は織田信長が1570年の姉川の戦いに備え、長浜の鉄砲鍛冶の国友衆に大量発注しました。それまでは今井宗久などの堺衆から鉄砲を購入していました。しかし、商売でどこの大名にでも鉄砲を売る堺衆との取引をやめ、信長や秀吉は国友衆をお抱えの武器工場としました。これは信長が関孫六で有名な関の刀鍛冶をお抱えの刀工場としたことと共通しています。もうひとつは湖上水運です。1569年から信長は琵琶湖の水運を支配し始め、秀吉が長浜城主になると大津七浦・坂本・堅田・木浜で大津百艘船という丸子船の船団を組織し掌握しました。これにより、南北の産物輸送などの経済的役割と兵隊と武器の輸送という軍事上の役割を確立しました。その当時に後世のような代官職が定まっていたわけではないと思いますが、黒田忠次は羽柴秀長の指示のもとで鉄砲と湖上輸送の代官的な役割を実直に果たしていたのだと思います。黒田九兵衛の名は全国的に無名です。わずかに現在の菩提寺に残されていた記録文書とその内容を裏付ける水口藩加藤家文書や分限帳、松山の地名や黒田霊社などがあるだけです。私が思うに、軍隊の強さの源泉である武器と大量輸送はいつの時代もトップシークレットです。

黒田家は宇田源氏佐々木氏の庶流の京極氏のさらに庶流。秀吉は名家や降伏させた大名を御伽衆としました。政治には一切関係なく、ただ雑談をするだけの相手で秀吉の自己顕示欲のための人材でした。また有名な黒田官兵衛は近江黒田氏の出自かどうかは定かではありません。後世、黒田福岡藩時代に藩主を怒らせて浪人した儒学者の貝原益軒が再雇用と屋敷をもらって編纂した黒田家譜の冒頭の由緒の記載は創作であるとも言われています。秀吉にとっては近江黒田氏の系譜かどうかは無関係で、中国攻めや九州攻めと西に向かって進軍する膝下の播磨で後ろから寝返られたら困るという事情もあり厚遇したと見るのが妥当です。黒田官兵衛は軍師と後世言われていますが、足を悪くした彼の役職は軍監で軍の命令を守るかとか誰が正当に手柄を立てたかを見極めて秀吉に報告する軍目付でした。秀吉自身が最高の軍略家であって軍師などは必要ではなかったはずです。実際に、その後は譜代扱いではなく外様として九州の福岡に大藩を任せました。秀吉は金銭で人を動かすことも得意でした。長浜城で初の城持ち大名となったときに民に対して行ったのはお祭りでした。近江の各所にある曳山祭りは秀吉が始め、民の子供たちに綺麗な衣装を着せて歌舞伎公演を行いました。これにより、秀吉は民心を掌握したのです。黒田官兵衛や藤堂高虎など自己主張の強い部将たちを同様に巧く使いこなしたと言えるでしょう。黒田九兵衛忠次は血筋からは御伽衆に入るほどでもなく、それよりも実務家として目立たず着実に秀吉軍の重要部分を支えたのだと思います。それはのちに二代目黒田九兵衛直次の時代に生かされ証明されます。

賤ヶ岳七本槍は本能寺の変の後の信長の後継者を柴田勝家と争う戦いでした。長浜城築城から10年が経ち、秀吉の小姓衆としてねねの指図に従っていた年端も行かぬ子供たちも成人して賤ヶ岳の戦いに参加しました。最年長は長浜出身の脇坂安治でのちに淡路島の洲本や愛媛の大洲の城主となります。最初は浅井長政の家臣でした。賤ヶ岳の戦いでは29歳でした。最年少が20歳の加藤嘉明で三河一向一揆で家康の元から出奔した加藤教明の子で馬を商いする馬喰でしたが長浜城築城時に採用されています。

加藤嘉明は異彩の少年で、元服前の13歳の時にねねの言いつけの子守役を無視して勝手に播磨攻めに参加して初陣を飾っています。ねねは激怒しましたが、秀吉がその意気を買い、取り成した逸話が残っています。さらに、15歳で参加した三木合戦では首球を二つあげる快挙でした。七本槍のうち3人が長浜出身で他には加藤清正の尾張出身や加藤嘉明のような三河出身者や播磨出身者がいました。七本槍には入りませんでしたが、近江甲良出身の藤堂高虎ものちに今治藩主として加藤嘉明の松山藩のとなりに位置しました。ちなみに、石田三成も長浜出身の同年代です。このように豊臣政権の中枢を担っていく若手の実力派部将を輩出するわけですが、その多くが近江出身でした。

主力は尾藤甚右衛門などのような木下藤吉郎時代からの家臣でしたが、播磨を平定し紀州を攻め、四国攻めを完了した1586年の段階で、秀吉は若手の部将をどんどん城主に登用しています。二代目黒田九兵衛直次は加藤嘉明の2歳ほど年下と思われます。最初は豊臣秀長に150石で抱えられ、高齢のため戦上手の尾藤甚右衛門知宣に預けられ播磨や紀州攻めに参加し褒美をもらっています。その後、加藤嘉明に乞われて淡路島志智城主となったときに知行を得て嘉明の家臣となりました。大阪湾や瀬戸内海の物資ルートの安全確保や鎮圧は大阪城を構える秀吉にとっては最優先事項でどうしても淡路水軍が必要でした。その後、嘉明はすぐに松山に移っています。実際に瀬戸内海に面した四国北岸は大阪に近い順から脇坂安治、藤堂高虎、加藤嘉明と近江勢を年齢順に並べたような城持ち大名の配置となっており、水軍の形成と鉄砲隊が重要でした。そんな中で二代目久兵衛直次は活躍の場を得ました。1590年には小田原攻めに加藤嘉明と黒田直次は淡路水軍で出陣、兵隊を清水港で下船させたあとは伊豆半島を回り込み、九鬼水軍とともに淡路水軍も洋上から小田原城に照準を合わせました。また、2度にわたる朝鮮出兵では海上戦よりも軍事物資の輸送が目的の出陣でしたが、軍功をあげ加増されています。松山では当初南の松前城という小さい城で松山城は築城されていませんでした。この地は、山口の毛利勢と九州薩摩の島津勢を抑える重要な軍事拠点でもありました。

改めて振り返ると、豊臣秀吉の力の源泉は近江勢の活躍と言っても過言ではないでしょう。もっとも、太閤検地を経て石高制という画期的なインセンティブ制度を取り入れた抜群の経営センスも見逃せません。それまでは領土制であり、必ずしも領土の広さと経済力は連動しませんでした。南極大陸か日本列島を貰えるとしたらどちらが得かを考えれば理解しやすいでしょう。秀吉は石高制により生産基盤の裏付けのある経済的インセンティブを与えると同時に、1石で一人の兵士を1年間養えるので、石高に応じて何人の兵士を動員できるかまでもリンクさせたわけです。秀吉の才覚と近江勢の活躍が近世の新たな統治体制を確立しました。そしてその多くは徳川政権になっても踏襲されています。

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